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#blognavi (例によって例のごとく、根拠なし、感覚で書いてる文章である。 鵜呑みにしない。) ”神”のいる社会の人間は、道徳・倫理等に縛られる傾向がある。 ”神”のいない社会の人間は、道徳・倫理等に縛られない傾向がある。 ”神”のいる社会は、性善説で捉えることが出来る傾向がある。 ”神”のいない社会は、性悪説で捉えることが出来る傾向がある。 ”神”のいる社会は、科学・経済等があまり発展しない傾向がある。 ”神”のいない社会は、科学・経済等がよく発展する傾向がある。 ”神”のいる社会の人間は、集団として生きる傾向が強い。 ”神”のいない社会の人間は、個人として生きる傾向が強い。 ---- ここで言う”神”とは、”宗教”と言い換えても良し。 但し、その”宗教”は、怪しげな新興宗教でもなければ、 ”支配者”や”政治”となっている、またそれに利用されている様なものでもない。 もっと、自然にあるもの。集団・組織にではなく、むしろ個人の内にあるもの。 そんなもののイメージ。 カテゴリ [駄文] - trackback- 2006年03月13日 23 48 01 #blognavi
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狂イ咲ケ焔ノ華 / 覚醒ノPrim ここは紅蓮のサンクチュアリ 人間風情が良くここに辿りついたな ここに来たということは、ふむ…お主も犠牲者か クックック…愉快な復讐劇で持て成すぞ 鎮魂歌(レクイエム)など もう聴こえない 紅蓮に芽吹く 一輪の華 恋を教わり 偽り知った 無邪気は侵食されゆく 弄ばれた 事実が憎い 踏み躙られた 裁かなくては あの罪人に 同じ苦しみ 花束にして贈ろう 崇めることも 懺悔ももう手遅れだ 奈落に落とす 悦びを頂戴な ※ さあ狂イ咲ケ焔ノ華ヨ abyssに眠る妬みを醒ませ 儚く散って咽び泣く様 咲き誇ったアネモネのようだ さあ狂イ咲ケ焔ノ哀ヨ 抑えられないカタストロフィー 殺戮の賽を投げてしまいなよ 早く… 性善説と性悪説についてお主はどう考える? 人間は後天的に悪を知るか、道徳を知るか、だ では問おう、お主のその悪意はどこからやってきた? 抑えられない 復讐の舞台劇は 何て甘美で 愉快な見世物なのでしょう…! ※繰り返し まだ狂イ咲ケ焔ノ怒リ 感情こそが セカイの答え 気が済むまでエグり続けよう 愉快に この期に及んで同情だと? だがそこが面白いぞ人間よ まだまだ楽しませてもらおうか
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【登録タグ E L-tone 曲 鏡音レン】 作詞:note(L-tone) 作曲:luna(L-tone) 編曲:note(L-tone) 唄:鏡音レンAppend 曲紹介 L-tone62作目。 ボーマス23で配布した4thアルバム「EMOADDICT」の表題曲。 歌詞 弓形(ゆみなり)を描く 言葉の種に 幾千の声 「感情を求む」 作り物 物語は道なりに 俄に信じられないプロローグ 然(さ)れども 夢現モラトリアム的 判断 少年の性善説を隈無く再生中 悲劇さえ歓迎 起承転結ショウタイム かのような かのような 潤沢な生き様を 春を買おうか?それとも 顰蹙(ひんしゅく)を買おうか?ねえ 想像以上に劈(つんざ)くA-A 即効性の薬も沢山 エゴイスティックな明日を頂戴 明鏡止水な明日を頂戴 鬱陶しい程 愛愛しい人 センセーショナルの患者のように 作り物 物語は道なりに 俄(にわか)に信じられないエピローグ 然(さ)れども 夢現モラトリアム的 判断 少年の性悪説を隈無く再生中 喜劇なら尚更 起承転結ショウタイム 革命を 革命を 潤沢な生き様を 余すところなく 放物線を描く 言葉の種に 幾千の声 人から人へと 弓形(ゆみなり)を描く 言葉の種に 幾億の声 「感情を求む」 春を買おうか?それとも 顰蹙(ひんしゅく)を買おうか?ねえ 形状記憶させやしないのさ 即効性の薬も沢山 エゴイスティックな明日に心酔 明鏡止水な明日に心酔 鬱陶しい程 愛愛しい人 センセーショナルの中毒患者 春を買おうか?同時に 顰蹙(ひんしゅく)を買おうか?ねえ 想像以上に劈くA-A 即効性の薬も沢山 日進月歩をING形 いつまで経ってもアナタは憧憬(しょうけい) 鬱陶しい程 救われたい人 センセーショナルの奴隷のように コメント 中毒性高い曲だな…ずっと聞いてても飽きないww -- 零夜 (2013-04-06 18 43 44) サビ好き -- 名無しさん (2013-12-21 15 03 27) 初めて聞いた時からずっと聞いてる -- 名無しさん (2014-01-01 23 51 21) ずっと聞いていても飽きない!それに、リズムが面白いから、頭に残る! -- レイヤ (2015-12-29 22 48 27) 名前 コメント
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昨今の教育問題について 石田清二 教育問題が世間を騒がせています。これについて、私には言うべきことがあると思うので、一文を書いてみました。 1.教育問題は行政によっては解決できない 先日、国会中継である人が「いじめゼロ」回答の理由を述べていました。政府が「いじめをなくせ」とせっつき、いじめ件数を報告せよ、と命令すると、各教師は保身のためにいじめ件数はゼロですと書かざるを得なくなる。仮に正直な教師がいて、実態をありのままに書くと、教頭などが、「お前はこんなことを書いて俺の身を危うくするつもりか」と言って「いじめゼロ」と書き直しを命じるのであると。 この人は「これはシステムが悪いのだから、それを改めろ」と政府に迫りました。政府は「政府としては、いじめをなくせというしかないではないか」と答えていました。 私は思いました。これはシステムの問題ではなく、行政によっては教育問題は解決できないということを露呈しているのだ、と。公務員というものは上司の命令に従うのが仕事であり、自分の意志で何かをするわけではありません。結果的に「命令はちゃんと果たしました」といういいわけのために働くことになってしまうのです。いいわけのための仕事がどんなものか、それは各自の経験から考えてみればおよその察しはつきます。 また、お上は命令を確実に達成するためにどんな手段をとるか。罰です。権力の本質は脅しなのです。つまり、相手の「保身本能に訴える」のです。教員が保身に走るのは行政の末端に位置づけられることからくる当然の帰結といえます。 従って公務員という立場が作り上げる資質は「言い訳のために働き、保身に走る」ということです。こういうと、そうじゃない公務員だっている、という意見が出てくるでしょう。もちろん、私なんぞ足元にも及ばない立派な先生は大勢おられるに違いありません。しかし、その人のそういう資質は公務員である、ということとは全く別のところからくるもので、公務員という資質とは日々葛藤しているようなものなのではないでしょうか。私は公務員を否定しているのではありません。公務員という立場がこういう資質を作り上げやすい、ということを言っているのです。 これが「問題の本質を洞察し、解決する」態度と程遠いことは明らかです。こういう態度は「自由で自立した人間」だけが持てます。教育問題の解決は教師が「自立し、自由になること」によってのみ可能なのです。行政によるしめつけは問題を悪化させるだけです。 2、いじめは管理によっては解決できない いじめはなぜ起こるのか?人間の未成熟さから起こるのです。だから人間を成熟させること、これが本質的解決です。「人をいじめる」のは人間の中にある弱い部分であり、自分のそういう部分を熟知し、それと上手につきあえるようになるのが成熟ということでしょう。 これは一番難しいことであり、どんな状況でも通用する唯一のマニュアルなどありません。個別的、集団的なあらゆる方法があるでしょう。あらゆる方法を使うべきです。しかし、効果はすぐには現れないでしょう。本当の成熟には長い時間がかかるのです。そして、教師と生徒との信頼関係は必須です。管理主義は一時的に効果があがるように見えますが、これこそが人間の成熟を妨げ、いじめを深刻化させているのです。 問題を明確にするのに役立つ昔からの言葉があります。「性善説」「性悪説」という言葉です。この国は我々が意識するとしないとに関わらず性悪説によって動いており、それがいじめを生んでいます。この国の人は人を信頼なんかしていません。人を自由にさせたら碌なことをしないと思っています。だから、徹底的に型にはめようとします。そしてそこからちょっとでもはずれた者がいれば集団で罰します。これははいじめそのものです。村八分、職場や学校でのいじめ、マスコミで批判された人への非難殺到など、大義名分の下に公然といじめが行われます。「管理主義でいじめを解決しよう」、というのは「いじめによっていじめを解決しよう」というのと同じです。それは新たないじめを生むだけです。 そして、罰への恐怖から、人は保身に走り、言い訳のためだけに仕事をするようになります。管理主義は人を萎縮させ、いびつにし、その成熟と自立を妨げるのです。 性善説によらなければ人を成熟させることなどできません。といっても、人の性の中には悪が容易に入り込むことも認めなければなりません。人の心は善や悪が次々と登場してはドラマを演ずる劇場です。人の心の成長はドラマに似た法則や順序のもとにゆっくりと進行するものと思われます。それをふまえて善に導くように努力すれば、人は善に進むことが大いに期待できるのです。なぜなら、人は善性への萌芽を最初から持っていると信じられるからです。しかし「必ず善に進む」という保障はできません。人間は不完全だからです。しかし成熟のためには自由が必要なのです。自由であるということは悪に進む自由もあるということです。「悪に進む自由を持っている人間が自らの意志で善に進む」世の中にこれほど尊いことはなく、そこに我々は努力すべきなのです。ここに保険をかけてはならないのです。保険は自由を奪うものであり、自由のないところに自立も成熟もないからです。だから性善説の教育は本質的には見返りを期待しない、ほとんど愚直なまでの奉仕であるべきです。ただし、人間性への洞察はいくらあってもありすぎるということはありません。これだけが唯一の武器なのですから。これが性善説の教育です。 このような教育からのみ人間の成熟は期待でき、そしてそこからのみ「いじめ」が本当に減ることが期待できます。 3.未履修問題は死んだ教育の一端にすぎない 教育と受験対策とは本来まったく異なるものなのに、この両者を混同することからこの未履修問題が起こったと思います。教育とは上述したように、もともと聖職者のような仕事です。受験対策は投資家のような仕事です。 この両者はそれほど違うものなのですが、しかし、ある能力を育成するという点に関して、共通部分がないわけでもありません。そういうことに敏感な教師ならば、単なる投資家的な部分を慎重に避け、教育的な部分だけを行うことができます。あるいは、教育的な部分だけを正規の教育として行い、受験対策は別枠で行うことができます。欧米のシュタイナー学校では後者のやり方を採っていると聞いたことがあります。 問題なのはこういう区別をしないときです。このとき何が起こるか?教育が死ぬのです。「試験のための詰め込み」になるのです。生徒の真理感覚、知的欲求、芸術的感性は全く相手にされず、ただ、いかに効率的に詰め込むか、だけが問題にされるのです。洗脳です。教育は全く死んだものになります。「指導要録に嘘を書いていたのがばれた。さあ、どうする?」どころの騒ぎではないのです。教育が死んでいるのですよ。洗脳になっているのですよ。そっちのほうがはるかに重大な問題ではないですか。 真の教育はもっと生き生きとしたものです。教師は生徒の「今の」知的欲求、芸術的感性に見合うものを提示できなければなりません。一回一回の授業が真剣勝負です。試験による「脅し」一切なしに彼らの信頼を獲得できなければなりません。その信頼だけをたよりに、こちらのいうことを聞いてもらわなければなりません。一回一回の授業が細心の注意によって用意され、なおかつ予想外の状況に柔軟に対応できる即興性を持つべきです。これが生徒にとって「生きた」学習となるのです。そこには退屈などありません。人間は本質的に学びたいものであり、それに沿ったことをやれば人は退屈などしないのです。
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【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】黄歇(春申君) 【性別】男性 【身長・体重】186cm・75kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久D 敏捷C 魔力C 幸運D 宝具C 【クラス別スキル】 陣地作成:C(E) 自らに有利な陣地を作り上げる。 自身の弁舌を効果的に流布させる”壇上”の形成が可能。 また、ランクは大幅に下がるものの、“壇上”の即席形成もできる。 道具作成:E- 儒学に関する道具の知識を持っているが、 キャスターにそれを作成する技能はない。 だが、マスターに知識を伝授し、作ってもらうことは可能かもしれない。 【固有スキル】 話術:A 言論によって人を動かせる才。 国政から詐略・口論まで幅広く有利な補正が与えられる。 巧みな話術により論点をすり替え、自身や味方の安全を確保する。 カリスマ:C 軍団を指揮する天性の才能。団体戦闘において、自軍の能力を向上させる。 カリスマは稀有な才能で、王を凌ぐ権力を持つ宰相としてはCランクで十分と言える。 無辜の怪物:E 「春申君、老いたり」 司馬遷の勝手なイメージによって、過去や在り方をねじ曲げられた英雄の姿。 召喚時、その容姿が晩年のそれに変貌してしまう。 ちなみに、この装備(スキル)は外せない。 【宝具】 『我は殿を弁にて務む(ファンィエン・ツォーユエチュウ)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人 楚太子を逃がし、自身も逃げ遂せたその弁舌。 キャスターの発言に言霊を宿し、マスターや友軍、そしてキャスター自身の、 撤退に関する判定に有利な補正を付加する。 当然、自身の“壇上”内で使えば補正はさらに強力になる。 最大限の補正を得て放つ弁舌は、宛ら相手を釘でその場に固定するが如き 強力な拘束力と言え、それで以て自身の言葉に耳を傾けさせ続ける。 洗脳成らざる洗脳とさえ言える、弁舌の絶技である。 『被説・性悪説(ヒューマンネイチャー・ヴィラニズム)』 ランク:C 種別:対軍宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:100人 孟子の性善説を真っ向から反対した筍子の主張、“性悪説” 筍子が説き、唐代まで時を経て魔道書としての格を得たこの思想は、 ほぼ無条件で対峙した相手の属性を“混沌・悪”に変える。 属性が変換しても、英雄本来の性格や思想が揺らぐことはないのだが、 元来、属性が“秩序・善”に近い者がこの宝具の影響下に置かれると、 属性の“差”から発生する葛藤から、対象の精神には毎ターン心理的ダメージが生じる。 【Weapon】 【解説】 戦国四君が一人。楚国の春申君・黄歇。字は無忌。 他の三人とは異なり、士族の出身である。 博識をもって楚の頃襄王に取り入れられ、秦の楚侵攻を取りやめさせ、白起の魔手から楚を救った。 また、頃襄王の危篤の際、太子完を楚国に無事帰し、自身も秦・昭襄王を上手く丸めこんで帰国。 その後は魯を滅ぼし、龐煖らとともに合従軍を率いて秦を討とうとするも失敗。 深部まで侵攻するも結局抜けず、全く逆・東端の斉国をまるで腹いせをするかのように討ってよしとした、という散々な結果だった。 年老い、食客の野心を見抜き切れず殺されてしまう……と史記には記されているが、 合従軍を失敗させてこそいるが無能ではなく、 その最期についても司馬遷の偏見半分、史実半分と言ったところで、明言するのは難しい。 また、雨宮由希夫氏・著作「春申君」に於いては、晩年の屈原と交流し、 楚に攻め込もうとした名将・白起を、名将として、善悪は抜きに敬意を払う人物……として描かれている。
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#blognavi 日銀の総裁が村上ファンドに投資をしていた!! えらくニュースでやってましたね・・・ そんなに人が儲けてはいけないんですかね。 確かに日銀総裁になった時点で、手を引いていれば・・・ 日銀総裁になる前からのファンドの投資は別に問題ない。 と思うけど、いかがなものでしょうか・・・ 中小企業の経営者の多くは、 「何か良い儲けない?」 「どうしたら儲かる?」ってよく聞いてきます。 みんな儲けたいのではありませんか? なのに、なぜ儲けることが悪いかのように報道するのでしょう。 公人という立場である人が、その立場を利用して儲けるのは、 良くないとは思います。また、その誤解を招くようなことを してはいけないということも理解できます。 しかし、ファンドでただお金を預けただけであるなら、問題は ないのではありませんか。預けただけでなく、何らかの圧力や 違法行為をしていたのなら別ですが・・・ そういった論点で報道しないのがどうも変に感じますね。 なんか儲けようとすること自体が悪いような。 特に沢山儲けると、寄って集って批判しますね。 ファンドや株式をする人は、みんな少しでも儲けを増やそうと 必死にあの手この手を考えてやってますよね。 村上氏のファンドマネージャーとういうのは、預かったお金を いかに増やし出来るだけ大きな配当を出すかが仕事ですからね。 はじめの頃の「もの言う株主」で、株主のために、少しでも 多くの配当の為に、企業と戦う頃の人であったら・・・ サッカーでも、勝つためにファウルを侵してまで、ゴールを 防ごうとしてますよね。ファウルを侵すのはルール違反という ことではありませんか。イエローカードやレッドカードまで 出されるほどのタックルなど・・・ ルールいわゆる法の中で正々堂々とはやってないけど、スポーツ というカテゴリーになると、ある程度ルール違反は認められる ということでしょうか? 沢山儲けると、なんか悪いことをしている!という性悪説で 物事をとらえる風潮が非常に強いですね。性善説ばかりでも いけないとは思いますが、儲けたら悪いというようなイメージの風潮は慎む必要がありませんか。 物事の問題の本質をしっかり捉えて報道なり、議論や批判を して欲しいと思います。 子供たちへ儲けるとが悪いとか、儲けすぎると必ず打たれるとか 夢や希望を無くすというか、モチベーションをさげるような ことではなく、儲けたことによる社会への還元の必要性や、 儲けることへの社会貢献価値のような、正しい知識や認識を 与えるようにしていかなければならいと思います・・・ カテゴリ [6月] - trackback- 2006年06月14日 01 37 30 #blognavi
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/194.html
目次 1.価値観変革のための指導者 2.地獄観について 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 5.鮭のように自分の生れ故郷の川(神の国)を忘れず帰ってきて欲しい 6.地獄霊は病人、地獄界は神が用意された病院である 7.地上での光の天使は医師の役割 8.人はこの世で例題に学び、答えのない応用問題を解かねばならぬ 9.天上界にもリーダーは居る。ただしそれは「村長(むらおさ)」というかたちで 10.健康な人間には真の健康の有難さが分らない 11.悠々たる大河の大らかさに学べ (1968年7月、GLA主宰、高橋信次師が、始めて雪道を開いた時に現われた、初期の師の守護霊フワン・シン・フワイ・シンフォーといわれる方の本名は、天台智顗大師であります。) (一九八二年八月五日の霊示) 1.価値観変革のための指導者 ―― はじめに中国語で語りかけてくる ―― 富山 あなは様は、どなたでしょうか ――。 ―― なお、中国語が続けられる ―― 智顗 私は、フワン・シン・フワイ・シンフォーです。 富山 以前に中国でお生れになった方ですか。 智顗 そうです。 富山 あなたの心性といいますか、そのお心がイエス様に近いといいますか、似ていると言われているお方ですか ――。 智顗 そうです ――。わたくしは、イエス・キリストと、あなた方が呼んでいるひとの魂の兄弟です。 富山 その魂の兄弟ということは、面白いというか、ひじょうに興味あることですが……。 智顗 わかりにくい概念だと思います。しかし、現に魂の兄弟というものはあるのです。わたくしたちは、はっきりと、その魂の兄弟について認識しておりますが、霊であっても、通常の霊達は、それほど分っていないのです。 富山 その仕組ですが、物理的な原理と関係していると言われていますが ――。 智顗 あなた方の世界の認識では、ひじょうに関係あります。 富山 そこに言わば、神の宇宙創造的な秘密が含まれているといってよろしいのですね。 智顗 その通りです。 富山 高橋信次先生がお説きになったあれでもまだ……。 智顗 じゅうぶんではありませんが、一応そういうような仕組は明らかにされました。 富山 高橋先生をご指導されたのは、あなただったのですね。 智顗 私も出てきてはおりました。 富山 仏教関係でご指導されたのはあなただけではないのですか。 智顗 高橋信次さんも誰の意見か判らなくなっていたような面も相当あったように思います。 富山 では先ずお伺いしたいのですが、高橋先生のお説では、地球上に人類が発生したのではなく、人類は他の惑星から円盤に乗って地球に来たというのですが、その点については間違いないことでしょうか。 智顗 これは、ひじょうに重要な問題であります。わたくしは、ある見解のもとに、いまあなたのその質問に対しては、答えを留保したいと思います。 富山 はい、わかりました。ところで現代は、地球の人類にとって、ひじょうに重要な時期であるということについては、間違いないですね。 智顗 それは間違いないです。 富山 その重要さの意味ということですが、過去三億年来、一番重要な時期という訳でしょうか。 智顗 そんなことはありません。 富山 こういう時に類する危機は何回もあったわけですね。 智顗 あります。 富山 エルランティ様という方は、三億年間に一度も出ては来られなかったのですか。 智顗 わたくしはよく存じません ――。 富山 実在される方でありますね。 智顗 はい。 富山 現在、天上界でのテーマとしては、仏教とか、キリスト教とか、イスラム教とかいう思想の流れを一つのもとに帰すという意図なんですか、これは、高橋先生の説かれた方向に……。 智顗 そうです。 富山 かなりの部分を切り捨てることになるのですが、そういう意味においての統一でしょうか。 智顗 どういう意味ですか。 富山 まあ今までの仏教、キリスト教、の中にはいろんなことがありますが、高橋先生の方向とは必ずしも一致しない面がかなりありますが、これらを含めた……。 智顗 もし一致するのであれば、出てくる必要ありません。一致しなくなったため、出てくる必要があったのです。 富山 これはどうなんですか、一つの宗教という方向での統一ではなく、一種の価値観、世界観的な面での統一がなされたらよいと思うのですが、必ずしも宗教的な意味、形でなくても……。 智顗 別に高橋さんも、自分で宗教を創るつもりはありませんでした。 富山 それがまあ今日、誤解というか、誤解されつつあるような状況にありますね。 智顗 そうですか……。 2.地獄観について 富山 あなたは、もと僧侶をしておられましたか。 智顗 そうです。 富山 では、仏教のことについてお伺いしてもよろしいか。 智顗 どうぞ、ある程度のことは分っております。 富山 まず一つ伺いたいのは、地獄についてでありますが。 智顗 はい ――。 富山 仏教の世界観と、キリスト教の世界観とでは、地獄についての概念が違うのですが ――、根本的な違いということについて。 智顗 先ずあなたのお考えを陳べて説明して下さい。どう違うというふうにあなたは考えておられるのか、あなたのお考えを説明してみて下さい。 富山 まず、閻魔大王というか、地獄の番卒長というか、そういう人が居ますが、それに対し仏教的というか、全インド的な考え方によれば、派遣されてそこへ行っている光の指導霊だというふうに考えられていますが。 智顗 それが仏数的な考え方だというのですね ――。 富山 はい。 智顗 それで……。 富山 キリスト教では明らかに、敵対というか対立しているといった概念がでてくるのですが。 智顗 キリスト教に閻魔大王が出てくるのですか……。 富山 いいえ、あのルシファーが出てくるんですが。 智顗 ルシファーが閻魔大王と同じ人だというのですか? 富山 まあ位置的には一応そういうことになると思うんですが、責任者ということになりますれば……。 智顗 それなれば、仏教の方の概念が未熟なのです。仏教の概念は、地獄のサタンの頭と、或は地獄に墜ちて行く霊を裁く役割にある人の役人と、これと混同しているのです。 富山 そうですか。それと東洋では、仏教系の僧侶がつぎつぎと、多く出てこられたのですが、例えば仏陀以降の人々と、仏教の流れについてお釈迦様は関与しておられるのでしょうか。 智顗 しております。 富山 そうすると、その後の仏教の動きについては……。 智顗 知っております。 富山 知っておられますね。それが意図された方向と違った方向へ行っているのでしょうか。 智顗 違います。 富山 かなり違った方向へでしょうか。 智顗 違います ――。時代というものがあります。時代の流れがあります。あるいは先人の意向を受継ぐということもあります。次第次第に変えられてきております。肉を持つ前はそれぞれ正しい考えを持って生れてくるつもりでも、生れてきた時代、その時代に合った学問、経験、そのようなものが違ってくるわけであります。例えば私が生れた中国においては、もはや釈迦が説いた教え、そのまま適用はできなかったわけであります。わかりますでしょう。 富山 つかぬことをお伺いしますが、あなた様は、どういう派の僧侶であったのでしょうか。 智顗 派とは? 富山 派と言うか、何宗というか……。 智顗 天台関係であります。 富山 天台関係の方ですか。 智顗 そのとおりです。 富山 と、言いますと智顗様以降に出られた方ですね。 智顗 ――。(注、この章では本名の智顗を名のっていなかった。) 富山 次にお伺いしたいことは、地獄界といいますか、この地獄界の存在意味というものについてお伺いしたいのですが、これは当初には予定されていなかったのでしょうか。 智顗 誰がですか。 富山 つまり地球霊団としては、地獄界が出来ることは……。 智顗 私のような下の者には分りません。神の御意(みこころ)は深く、遠く、高いものであります。神の御意がどの辺にあるのか、わたくしのようなものには解し兼ねるところがあります。しかし現に、地獄というものがあるということ、これは厳然たる事実であります。 私たちの課題は、この与えられた教材を、どのように活用するかということにかかっているのであって、なぜ、このような教材が与えられたかという根本の理由は判らないのです。 富山 ではあなた方のような高い霊域に居られる方々は、居ながらにして地獄の様子というものが分るのでしょうか。 智顗 わかります。 富山 どのような状況になっているかということは、わざわざ行かなくともお分りになりますか。 智顗 わかります。 富山 彼らの考え方というか、心の状態ということについては……。 智顗 わかります。 富山 それについては、しかし、積極的に関与することは許されていないわけですね。つまりその地獄界に居る者は、その堕ちて行ったもの自身の問題として……。 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 智顗 例えばあなたはそういう地獄というような世界を切り離して考えていますが、いま、あなたの心の中には、天国も地獄もあるのです。そのあなたの心の、地獄だけをどうやって消滅させるのか言えますか、天国も地獄もあなたの心の中にあるのです。そのあなたの心の地獄の部分だけをどうやって切って捨てることができるというのですか、できないのです。天国にも地獄にもどちらにも動いています。天国地獄は、空間的なものではないのです。あなたの心の中、その中にも広大無辺な天国も地獄もあるのです。この地獄だけをどうやって、私たちの力で抹消するのですか。分りますか。わたくしが言っていることが判りますか。――あなたの心だけで全宇宙、全宇宙の天上界、地獄界、全てが入っているのです。わかりますか ――。どうして地獄が出来るのか、それはあなたが地獄を造り出しているからなのです。どうして天上界があるか、あなたが天上界を造り出しているのです。私がもし地獄界を抹殺するならば、あなた自体を抹殺して、天国も地獄も無くしてしまわなければいけなくなってしまいます。それはできないことなのです。 富山 それは……。 智顗 別のものではないのです。一つのものなのです。一つのものの陽の当っている部分と、陰の部分なのです。わかりますでしょう、太陽の光が燦々と輝いても、光の当る部分と当らない部分、あらゆる物体にはあるのです。 富山 それでひとつお伺いしたいのですが。如来仏のこころというものなんですけれども、仏のこころというものにおいては、いわゆる天国的な部分と、地獄的な部分とがどんなふうな状況で同居しているのでしょうか。 智顗 同居とはどういう意味でしょうか ――。 富山 当然その地獄も含まれているのですね心の中に……。 智顗 地獄を思えば地獄ができるはずです。思わなければないわけです。 富山 ただ、その実在界というのは、今いる状態の心からその心の変化がないのでしょうか。例えば地上界だと、天国か、地獄的ないろんな心を出しますけれども、ある固定的な、固定されたような範囲をもった心の状態に止まって居られるのでしょうか。たとえばあなた様のような方だと……。 智顗 固定的とはどういうことでしょうか。 富山 固定的というか、ある一定のレベルの心、例えば失礼ですが、地獄界の心を出すということは。 智顗 わたくしたちの心は、愛と慈悲に満ち溢れております。愛と慈悲の塊です。そうでなければ、私たちは私たちで居ることができないのです。 富山 私たちは、神の子であるという自覚を持ちつつも、こんないろんな心の状態を、地上界で出すということは、肉体と結びつけられているということが一つの条件になっているわけでしょうか。 智顗 というよりも、この地上界が、天上界、地獄界の、二つの力の場の丁度影響され合う中間地点にあろということであって、両方からの影響を受けていることであり、だからあなたの心の中も、両方からの力が働いて来ているわけでありますし、あなたの心の状態によっては、どちらの方により強く引っ張られるか、違ってくるわけです。 富山 そうしますと、高橋先生の本では、地獄界とは、四次元の幽界の一部として設定しているのですけれども? 智顗 空間ではないのです。人間の数だけの天国と地獄があると思えばいいのです。 あなたが死んであの世に帰っても、あなたが判る天国も地獄も、あなたの天国と地獄に過ぎないということなのです。あなたじゃない人の天国と地獄は、またあなたの天国と地獄と違うのです。分りますでしょうか。 富山 と、いうことは、人はその人の心を通してしかその世界を理解することはできないということなのでしょうか。 智顗 その世界もそうなのです。判りますでしょうか、ひじょうにむつかしい概念なのです。今あなた方の物質世界においてはひじょうに解りにくい概念なのです。すべて、例えば蜂の巣のようなものです。入口があります。つきつめていくと最後には、頂点は一つなのですが、それぞれの蜂の巣の中でみんな、これが天国へ通じる天国の世界、そういうふうに、自分の都合の中だけで考えているわけです。だから、天上界へあなたが帰られたとしても、あなたは、私たちが経験している天国地獄の図と、同じものをあなたが観るかどうかは、これは分らないのです。全く異う世界かも知れないのです。あなたが観る世界は ――。 富山 すくなくとも、あなたと何時もご一緒にお仕事をしておられる方々が観る世界は同じなのでしょうか ――。 智顗 そうです、私たちの仲間たちは同じ世界を観ております。しかし私の眼から観える天国、地獄の様相と、他の者が観る天国、地獄の様相は、恐らく異っているでしょう。様相が異っているということは、そのような世界が違う世界に見えるということなのです。 富山 それぞれの心のフィルターが……。 智顗 違うのです。例えば映画館があります。画面に映りますね、そのようなのではなくて、例えば立体映画としてですね、空中に映画が映し出されるとします。観客はいろんな席に座っております。それぞれの席によって見え方が違ってくるわけですね、実際は一つなんですけれど、座っている位置によっていろんな風にみえるわけです。いつも人間の背中しか見えない人も居るんです。横面しか見えない人も居るんです。前ばかり見える人もいるんです。ですから私たちにしてもすべてを見通していると言い切るだけの自信というものはないのですが、しかしその立体映画の全体像の輪郭を、かなり解っているという自信はあるわけです。 富山 そうすると、その四次元以上の世界は、多様性というか、つまり観る者の心によって変ってくるということなのでしょうか。 智顗 そうです。みんな同じものを観ているのではないのです。あなたの観る天国地獄は、広大無辺な世界でありますが、それはあなたの天国、地獄なのです。 富山 例えば、この同じ地上界でも、幸せな人にとっては天国に思え、苦しんでいる人にとっては地獄に思えるということなんですね。しかしそこにもまた座席、つまり質といいますか、価値基準の格差が自ずからあるというわけなんですね……。 智顗 そうです。同じことがもっと明確になってくるわけです。 富山 例えば、地上界では、地上を天国と思う人がいても、地獄と思う人がいても、客観的な世界としては一つの世界としてあるわけですが、実在界ではその客観的な世界に当る部分が変わるわけですね。 智顗 そうです。 富山 するといま地獄という世界は、地獄界に居る人たちの心がつくり出している世界ですね。 智顗 だからあなたがいまの立場で地獄というものを見ているのであって、例えば実際に地獄界に棲んでいる人、或は地獄界に近い所に住んでいる人が見た世界は違うものなのです。彼らにとっては、それなりに生き易い場所なのです。わかりますでしょう。普通の世界なのです彼らにとっては。地獄に棲んでいる人びとにとってみたら、地獄は普通の世界なのです。あなたがこういう世界に住んでいるように、彼らにとっては、普通の日常生活を行っているのです。 私たち天上界の眼からみれば、地獄とは闘争と殺戮、悲しみと苦しみに充ちた世界であり、このような世界は何んとかして無くしたいと思います。しかし彼らにとっては、それは普通の世界であり、日常の世界なわけなのです。分りますでしょう。何故地獄が存在しているかという意味、それを分ってほしいのです。そこに棲んでいる人達は、それで普遥だと思っているのです。それがあたりまえの世界、日常の世界なのです。わかりますか。 例えば、K町というこの町に住んでいるような人が居ます。彼らはこれを当然のこと、あたりまえのこと、日常の生活とみております。しかし、たとえば、ある外国の都会の人達がこれを見たなら、この世界って何という世界なのだろう、こういう世界は無くしたい、これは不幸だと思うかも知れません。また或は、アフリカ、インドの地において、いろんなことで苦しんでいる人道が居ります。あなたの側からみれば、生地獄であります。このような生地獄はなんで無くせないんだろうと思います。しかし彼らはそこに生れ、その地に育っているのです。それが彼らの世界なのです。 富山 お言葉を返すようですけれど、この地上界と、地獄界とは違うわけでしょう。 智顗 ―― はい ――。 富山 地上界の場合は、そういう貧しい地域に生れて苦しんでおります、精神的に。 智顗 あなたは苦しんでいませんか……。 富山 いいえ違います、地獄界に居る人は苦しみはないんでしょうか。 智顗 あります。天上界の人々も苦しみ哀しみはあります。 富山 そうすると、苦しみの種類が違うわけですね。 智顗 違います。だからさき程から私があなたに言いたいことは、例えば私たちの立場からみれば、地獄というものは、いいことは何もない、ひじょうに住みにくい、悲しみ苦しみ真暗な世界なわけです。しかし彼らにとってはそれが普通の世界だということです。ということは、彼らにとってそれが普通の世界だということは、その世界はその世界としての存在意義があるということなのです。現に、そうした人が生きているということなのです。 富山 そうすると地獄界を無くするという意味が、いまひとつ分りにくくなってくるのですけれども。 智顗 ―― はい ――。 富山 地上にユートピアを建設するに当っては、地獄を無くするということが目標ではないのでしょうか。 智顗 だから彼らは彼らで抵抗しているわけです。彼らは彼らの世界を守りたいと思っているのです。しかしながら私たちが、いま一つ正しいところ、―― まあ彼らと、私たちだけであれば、お互に対立したものとみえるかも知れません。しかしながら私たちは、神というものを知っております。神の意向がどこにあるか、ということを知っています。そこに私たちの使命があり、自覚があるわけです。神というものを信じるか信じないかによって最後の一線が変わるわけであります。もし、神というものが、地獄の側についているものならば、私たちのやっていることは間違っていることになってしまいます。 富山 つまり、あなた方の考えておられること、あなた方自身の神に包まれている心が、地獄に居る人違より広いわけですね。 智顗 私たちは、この世界が神によって創られたものであり、神のために日夜働いているということを自覚しております。 富山 神によって生かされているという自覚が強いわけですね。 智顗 そうです。だから私たちは、神の国により近い世界を、実現しようとしているわけです。しかし神についての認識は、彼らの頭達(かしら)は私達とは違ったものです。だから彼ら頭達の側にとってみれば、われわれの存在はひじょうに厭な存在であるわけです。 どちらもどちらであります。しかしながら神という絶対の存在を考えた時に、どちらの方が正しいか、ということが明らかになってきます。その使命の遂行を私たちはしようとしているわけです。 神というものがなければ、私たちはそのようなことをする必要もないでありましょう。それぞれの人間が、それぞれの世界で住んでおれば、それで済むわけですが、私たちは、神の意図の下に生きているわけであります。なぜ、そのような意図を持っておられるのか……、それは不思議であります。 富山 神の意図というか、神の心を切り離して、自分たちの心だけで生きようとしたところに、地獄界が成立した原囚があるわけですね。 智顗 そうです ――。 富山 そうすると、彼らは彼らなりに満足している状況で生活しているんですね。 智顗 満足しているかどうかは知りません。しかしこの世界以外に棲む世界を、彼らは分らないでおります。ですから私たちは、もっと他に世界があるんだということを彼らに知らせたいのです。 富山 つかぬことをお伺いしますが、あなた様は地獄界へ行くことができますか。 智顗 行けます。 富山 行かれたことがありますか。 智顗 あります。 富山 何か抵抗を受けることがあるんですか。 智顗 何の抵抗ですか ――。 富山 あなた方のような方が行かれると、地獄界の人たちは……。 智顗 大騒ぎです ――。彼らは私の姿を見ろことができないのです。私がなにものであるかわからないのです。大騒ぎです。 富山 つまり暗闇の中に急に光が出て来て、まぶしくてたまらない、何も見えないというような……。 智顗 そんな感じです、大事件です。 富山 それはいわゆる地獄界の大幹部、といいますか、上の方達……。 智顗 そういう考えは捨てなさい。あなたの考え方のそういう部分が病んでいる部分、そこです、そんな考え捨てなさい ――。 富山 ―― はい ――。 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 富山 こういう世界構造を知らないで、亡くなった人がかなり多いと思いますが。 智顗 大部分です。 富山 大部分ですね。そういう方たちに対して、どうも割り切れないものがあるのですがね―、そのままにして置くということに対して……。 智顗 そのために神は、永遠の時を与えておられるのです。そのために神は、転生輪廻という機会を与えておられるのです。もし一回切りの人生であるならば、それを知らさないというのは罪であります。しかしながら神は永遠の時を待っておられます。永遠の転生輪廻をくり返させておられます。私たちは、その大きな慈悲、転生輪廻という慈悲の中に生きております。何度も何度も生れ変る機会を与えられております。そして小学校から中学校へ、高等学校へと、あなたが長い間、親から教育を受けたように、神もまた教育の機会を何度も与えておられるのです。 富山 そうしますと、こういう状況にあるということは、霊団としては、全休が一つの転生輪廻の過程にあるといってよいのでしょうか……。 智顗 あなたの言っていることの意味がよくわかりません。 富山 例えば、霊団全休としてのこういう状況にピリオドを打って、新しい状況に入るという……。 智顗 私は、あなたのいまのご質問にお答えするべき任にありません! 富山 はい ――。それではいま一つ、例えば元の守護霊の方や、魂の兄弟達は、自分の関係した霊が地獄へ陥ちた者については、常に気にかけているのですね。 智顗 ――。 富山 そうしたら、心が熟したら上へ引き上げる準備はできているのですね。 智顗 そのような言葉の使い方、余り私は好みません。 富山 引き上げるがいけなければ、変化させる。 智顗 好みません。わたくしたちは、わたくしたちの世界へ来て戴きたいと思っております。引き上げるとかいうような考え方は嫌いです。懐しい友達に帰ってきて欲しいという気持です。 富山 そうすると、救いたいなどという気持があった場合は、例えば親子、肉親、友人であった場合……。 智顗 あなたの救うなどという言葉は明らかに間違っております。私達はそういう気持じゃないのです。懐かしい人、親しい人、そういう人達と逢いたい、帰って来て欲しい、という気持、わかりますでしょう。これは郷愁に似たものです。故郷に帰って来て欲しいという念いです。天上界に引き上げるとか、そういうおもいじゃないのです。救済するとかいう思いじゃないのです。あなたの心のそこがいま病んでいるんです。よくよく間違わないでほしいのです。ここを間違うと、多くの宗教家達が間違った同じ道を歩むことになるのです。 富山 ―― はい分りました。それじゃ戦争ではなく、平和を求める気持ですね。
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東洋思想 仏陀 カースト制・ウパニシャッド哲学の古代インド 梵(ブラフマン):宇宙の根源・我(アートマン):人間の本質 梵我一如が人間の理性である これらのバラモン教の説く苦行が解脱の道ではない事を知った仏陀 八正道の実践・正定・正しい瞑想を行う事 全ての存在に仏性があるのだ 大乗仏教 一切の衆生の救済を目指す菩薩が理想とされる 六波羅密の徳目(布施・持戎・忍辱・精進・禅定・知恵)、竜樹(ナガールジュナ)と世親(バスバンドゥ) 空の思想・唯識論 小乗仏教 出家による戎律・阿修羅を理想 孔子 倫理学を説く 秩序の重視 人間と人間のあり方を示す「仁」を強調(人間道徳の本質) 客観化した側面が「礼」(守るべき道徳行為) 孟子 性善説 善に向かう心とは四端の心を指し、これを育てる事により仁・義・礼・智の四徳を得る 仁義の道は王道 「五倫の道」「五常の徳」 荀子 性悪説 官学化 支配層の精神 朱子学 道教・仏教の影響を受け宋学が成立し、これが発展 宇宙の万物は運動する「気」によって構成され、宇宙をあるべきようにあらしめているものが「理」 人間は「気」を克服して「性」に変える事が必要 陽明学 朱子の「性即理」に疑問をもった王陽明が「心即理」を唱える 「性」と「情」を「心」として一体にとらえた 知識を磨くのではなく良知を実現する事が「知行合一」 老子 万物の存在の根源は「道」である 「あるがままにまかせよ。自然の道に従へ」 無為自然 儒教は人偽的で諸悪なもの 荘子 全ては相対的に成立しており、正・不正、善・悪の判断も全て相対的であってそれぞれ対立するものとの関係で認められるにすぎない 「天」と「人」を対立させた観点で、「人」こそが人間の苦悩と混乱の原因であり天地自然の道である「天」に帰れ! 日本の思想 外来思想と接触しこれを摂取しながら発展した思想 外来文化に対する包容性という日本人古来の性格 自然を神とするアニミズム(自然信仰)で唯一神を考えなかった 古代では仏教、近世では儒教 → 封建道徳、近代では西洋思想の影響 浄土信仰 平安末期 戦乱や天変地異からの不安の救いを宗教に求めた 仏への信仰深き人は極楽浄土に往生できるという考え 人間はただ念仏につとめ阿弥陀如来の慈悲心にすがる他はない 浄土真宗 親鸞によって絶対他力・悪人正機説 自己の弱さと罪深さを自覚すること 日蓮宗 「法華経」を宇宙とし、現実の肉体のまま宇宙と一体になれ! 現世でも浄土できる 臨済禅 栄西によって中国の臨済禅が伝えられ、自力修行を重んじ戎律を強調 曹洞宗 道元による曹洞宗 自己を捨て仏に全てを投げかけよ 身心脱落・坐禅 儒学 江戸時代になり朱子学が官学として採用され封建制の基盤となった 他に陽明学は中江藤樹 古学 孔子・孟子などの原典から山鹿素行らによって儒学の日本化 古文辞学 実証主義的社会制度 文物を知った上で孔孟を理解しよう 国学 荷田春満・加茂真渕・本居宣長「古事記」「万葉集」より実証的・文献学的に学ぶ 人間の自然な感情・情緒を尊重す 「天皇のしろしめす道」=「大和心」 ⇔ 「漢意」 石門心学 儒学思想を精神的支柱とした幕藩体制のもとで、従来からある仏教・神道の思想と交錯しながら、町人の生活規範としての封建道徳を形成 石田梅岩の石門心学 営利の追求と家業の尊重
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目次 1.価値観変革のための指導者 2.地獄観について 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 5.鮭のように自分の生れ故郷の川(神の国)を忘れず帰ってきて欲しい 6.地獄霊は病人、地獄界は神が用意された病院である 7.地上での光の天使は医師の役割 8.人はこの世で例題に学び、答えのない応用問題を解かねばならぬ 9.天上界にもリーダーは居る。ただしそれは「村長(むらおさ)」というかたちで 10.健康な人間には真の健康の有難さが分らない 11.悠々たる大河の大らかさに学べ (1968年7月、GLA主宰、高橋信次師が、始めて雪道を開いた時に現われた、初期の師の守護霊フワン・シン・フワイ・シンフォーといわれる方の本名は、天台智顗大師であります。) 5.鮭のように自分の生れ故郷の川(神の国)を忘れず帰ってきて欲しい 智顗 別に戦争に出かけているわけではありません。彼らは古里を忘れてしまっているのです。あなたの古里はこちらですよ――と、私たちは教えたいのです。 鮭が川を遡って来るでしょう。自分の生れ故郷の川の水、川の匂いを嗅いで海から遡って来るでしょう。そのとき、遡って来れない鮭に対して、私たちは、こちらだよ、こちらだよ、と、教えたいわけなのです。 富山 彼らにとっては、今のところが第二の古里になっているわけでしょう。 智顗 知らないのです。わからなくなっているのです。 富山 わかっている人もいるわけですね。 智顗 そうです。わかっている人も。 富山 わかっていながら第二の故郷を選んでいる人も……。 智顗 そういうことはないでしょう。私はあなたのその上とか、下とかいう考え方、概念がひじょうに嫌いなんです。そういう概念、あなた、その概念がもう心に巣喰っています。上とか下とか、上げるとか落ちるとか、そういう、その考え止めてほしいんです。是非止めて下さい。 富山 部分と考えたらよいわけですか、一つの心の中の様々な部分と ――。 智顗 違います。それも違います。 富山 例えば価値観の違い、今様に言うならば、自由主義国と、共産主義国のような価値観の異う世界と考えればよろしいか。 智顗 何んとも申せません。とにかく、上とか下とかいう考えは捨てて下さい。あなたその考えにものすごく毒されています。一歩誤ればあなた悪い方向に行きます。そういう考えをもっていれば悪い方向へ行きますよ。 富山 ―― はい、こころします ――。 智顗 あいつは悪人だから直してやりたい、訓練して真人間にもどしてやりたいと、そういう気持ではないんです。私たちは、善人であれ、悪人であれ、懐かしい故郷へ帰って来てほしいと、そういう念いなのです。判りますか、言っていることが分りますでしょうか。あいつは悪人だ。しっかり直して、わたしたちが居る上流社会へ連れて来たいんだ。あいつはみすぼらしい格好をしてマナーも知らない、そのマナーを叩き込んで、直して、悪いところを直して、髪も整え風呂にも入れてきれいにして、そして私たちの上流社会に帰したいと、そういう風に私たちは考えてはいないのです。どのような格好をし、どのような身なりをし、どのような境遇であろうとも、もとの懐かしい世界へ帰って来てほしい、そういう想いで一杯であって、そういう想いを仕事として伝えるのが私たち光の天使の役割なのです。決して偉いんじゃないのです。 富山 ―― 高橋信次先生のお話では、自らの過ちは自ら反省して、神の赦しを得るということがあるんですけれども、そういうことが前提となっているという考えがうかがえるのですけれど……。 智顗 生きている人間に対してでしょう、それは。 富山 いいえ、地獄に陥ちている人間に対してです。 智顗 地獄に陥ちている人間に対して? 富山 ―― はい、自らの罪を反省して、心の曇をとって、神の赦しをお願いして、そのことによって天上界へ還って行けるのだということですが。 智顗 それは、いわゆる地獄に落ちている人達の立場から考えた場合はそうだということなのです。私が言っているのは、私たちの立場から考えればどうなるかと言っているのです。 富山 ――分りました。もしそうだというなれば救済、一種の救済法と考えてよろしいか。 智顗 救済という言葉は、私は嫌いであります。 富山 ―― それを通さないといけないという施(ほどこし)の方法論と考えてよろしいでしょうか。 智顗 どうも、そういう何といいますか、理屈っぽい言い方ひじょうに嫌いなんです。私たちの魂の古里には神が居られます。私たちは神を知っております。懐かしい神を知って居ります。その神について念いを起こしてほしい、そう思うんです。いまあなたが言われる反省というのは、どうしてその懐かしいものを失ったか、どうしてそちらから眼をそむけてしまったのか、それに気付いてほしい、それが反省であります。想い起こしてほしい、どうして違う方向へ行ってしまったのか。 富山 そうしますと、反省というものは、させられるものではなく、自発的にするものだということなのでしょうか。 智顗 どうも、今の考えも嫌いです。どうもあなたの頭の中には教育的な要素のもの、なにか訓練する、教育するというような考え方の要素があるように私には思われます。 どうも私はその啓蒙とかいうあなたの考え方にはついていけません。そういう見下した考えがあるように私には思われます。そうではないのです。 富山 ―― 現在地上に流布されている宗教の概念とは、そういうことではないですか。 智顗 上とか、下とかじゃないんです。乳と蜜の流れる地、美しい地、懐かしい地、この地に還って来てほしいという平面的想いを念えばいいのです。いろんな地域があるんです。たまたまジャングルで今苦しんでいる人も居るんです。ジャングルの中で、砂漠の中で、飢えている人もいるんです。水の中に住んでいる人もいるんです。いろんな人がいるんですが、乳と蜜に溢れた懐かしい、美しい地があるんだよと、みんな、元はそこに居たんだよ、そこからいまジャングルの中に行っているんだよと、ジャングルはもともとあなたが住んでいた世界じゃない、ここがあなたの古里なんですよと―― それに気が付いてほしいだけであって、上とか、下とか、救うとか、そういうのとは違うんです。もし、あなたが救うというような心でもって地獄に陥ちている人達に接しようとすれば、やがてあなたは間違った方向に行くようになるでしょう――。そうではないのです。よくよく思い出して下さい。この美しい、懐かしい、楽しい地に気付いてほしいという念いが天使の想いなんです。 分ってほしい。客観的には、救うとかいう状況が出てくるでしょう。けれど、そういう思いではないのだということを忘れないでほしいのです。そこのところの原点を間違うと、あなたは大変な方向に行ってしまいます。 富山 つまり喜びを分かち与えたいという。 智顗 分かち与えたいというような、そんなんじゃないのです。まだ分りませんか。 富山 では、一緒に喜んで欲しい……。 智顗 あなたにも父母が居られましょう。あなたの父母は、あなたが勤務地から休暇で帰られることを、無条件で喜んで居られるはずです。それは今のあなたがもっと立派になって、出世しておれば、嬉しいかも知れませんが、あなたが出世しておろうが、居まいが、あなたが良い身形をしていようが、いまいが、あなたが罪を犯していようが、いまいが、故郷に帰って来てくれることが、それが嬉しいのです。父母としては、帰って来いよ、帰って来いよという電話をかけたり、手紙を書いたりします。そのことは、あなたをよくしようとか、喜びを分かち与えたいとか、そういうことじゃないんです。わかりますでしょう。゛愛゛は理屈じゃないんです。あなたは理屈のフィルターを通して、ものごとを考えすぎます。そうじゃない。無条件の喜びなんです。帰ってきてほしいという思いなんです ――。救い出すとか、引っ張り上げるとか、そういう考えどうか今日を機会に改めてほしいのです。 富山 ―― はい ――。 智顗 あなたの父母が、あなたを京都から呼び寄せるのは、これはあなたを救い出すためでも何んでもない。懐かしい故郷に帰って来てほしいという思いです。それは懐かしい故郷には楽しいことがあります。心の安らぎがあります。愛もあります。懐かしい会話があります。そういうものなんです。この懐かしい家庭に帰るという意味なんです。天上界に引っ張り上げるという意味じゃないんです。どうか、そのことを、何度も、なんども、しつこく言いますけれど、その思い、私のこの念いをどうか感じとってほしいのです。 富山 そうすると地獄界に居る人は、それを誤解しているわけですね ――。 智顗 いろんな人が居ます。誤解も六階もない面があります。いろんな人が居ります。たまたま、そのうちの部分的な人をみてすべてを語るのは問題であります。 例えば、また同じ比喩を使わして頂きますが、あなたの父母が、あなたに、ふるさとに帰れ、といっても、あなたがひじょうに抵抗する時期もあるはずです。そうですね、あなたにはあなたの予定がある。私はこれからこういうことをしなければならないから、今は帰りたくない、という場合があるわけですね。そういう面が同じようにあるわけです。地獄で威張っている人もいるんです。俺はいま、威張っているんだと、いろんな部下が居るんだと、子分がいるんだと、面白いわい、という人もいるわけですね。そういうときに故郷に帰れ、帰れといっても、いや俺はいまやっていることがあるんだと、俺は満足しているんだと、いうひとも必ず出てくるんです――。そして反省とは、帰りたいという気持が起きたときなんです。言わば、おふくろの味を想い出して、ああ、あの味にも一度めぐり会いたいと思い出したときにそれが反省になり、天上界へ戻る道標(みちしるべ)になるわけです。しかしそれを忘れてしまっている人もいるわけですね、その世界でもう生きている。しかし、たまに母の味、母の気持を想い出すことがあるわけですね。それを想い出しなさい、反省しなさいというのは、そういうことなのです。かつての懐かしい家庭ですね、笑しい、楽しい団欒、それを想い起こしなさい。あなたのもと居た世界はそういう世界ですよ――。そういう暖かい家庭からあなたはどうしていまこんな世界に居るんですか、それに気付いて下さいよ。それが反省なんですね。反省して下さいというのはそういう意味です。ここを勘違いしないでほしいのです。気付いてほしいということなのです――。田舎を想い出した時に、田舎の母と逢いたい、母の作ったものが食べたいと思った時に、あなたは離れた遠隔の地から郷里に帰ろうかという気が起きるわけですね。それも、あなた自身が汽車に乗り船に乗って帰ってこなければ郷里には誰も帰って来させられないんですね。わかりますでしょう。自力とはそういう意味です。あなたが郷里を想い起こして、故郷の父や母に逢いたいと思い、先ず思うということが先決です。この思うということが反省なんです。それから精進がありますね、。努力、あなたが様々な交通機関を使って帰ってくるということです。自力というのはあなた自身が足を運ばなければ、あなたは郷里へ来るということはできないということです。誰が大の男を連れて帰りますか。 富山 その場所が故郷になるということはないですか? 智顗 ――それは、地獄が天国だと思っている人は、それはそうだということですよ。私はいま比喩で言っているのですよ。分って下さいよ、比喩をいま使っているのですよ。いいですね。ですからあなたがいま、さきほど質問されましたね、あなた方はどうして地獄を放って置くんですかと、引き上げられないんですかと――。それはね、例えばわたしたちが京都の下宿のあなたのところへ出向いてですね、あなたに繩をつけて、あなたを郷里へ引っ張って帰るというような強引な手段に当るわけですね。それは、あなたを、あなたの人権を、あなたの人間としての個性を尊重するならできないわけですね。やはりあなた自身が、ご自身の足で帰るということですね。それをしなければ帰れない。だから自力なんですね。そういう意味なんです。だから私たちとしては、天上界から、そのかつての懐かしい故郷に気がついてほしい、想い出してほしいと、さまざまな手段を工夫しているわけですが、私たちが直接引き上げてくるとか、引っ張ってくるというようなことではないということです。 富山 はい。そうすると、状況の変化がない限り、ずっとこのままいくわけですね。 智顗 どういうことですか。 富山 いまの状態で、一つの変化というか、転回の時だと思うのです、それがうまくいかなかった時はいまの状態でずっといくということですね。 智顗 そうです。 富山 宗教家たちが多く陥るその間違いというのは、救済者の立楊に立つということですね。 智顗 それも最大の問違いの一つであります。どうがいま私が言った譬をよくよく憶えておいてほしい。そういう気持だということです。救い上げるというような気持ではないということです。そういうわけで、私たちの仕事というのは、古里の川に、その懐かしさに気付いてほしい、そういうことなんです。電話をかけたり、手紙を出したりしているわけですね、そういうようなひじょうに、言ってみれば、ソフトな手段ですね。それでも見向きもしない人もいるわけです。しかしそれをきっかけに帰って来る人も居るんです。そういうことなのです。 富山 帰ろうと思えば帰れるんですね。 智顗 そうです。みんな自分が帰ろうと思えば帰れるんです。例えばいま、現代的な説明をするとすれば、いまちょっとこちらで大切なことがあるとか、或は、今は金の工面がつかないから帰れない、そういうふうにして帰らない、いろいろと理由があるんです。地獄に居る人にもそれぞれの理由があるんです。みんな一人ひとり、それぞれの理由があるんです。 富山 帰りたいが、もう帰れないと思っている人も……。 智顗 と、思っている人もいるわけですね。それは帰る方法が分らない、どうやったら帰れるか分らない。 富山 それは、だから教えてあげなければいけない面があるわけですね。地図がなくて迷子になっている人も居るんですね、中には。そういう人たちに天上界への呼びかけをするという意味の一つには、地上界の人を通して、地獄界の方へも働きかけをする。呼びかけをするという意味もあるわけですね。私も何度かそういう体験をしたことがありますけれども。 智顗 勿論それもあります。 富山 それから地上の生活を縁として死後、それぞれ様々な世界へ行くわけですけれど、まず、その行く前に覚えておくというか、こういう死後の仕組を覚えておいてほしいということもあるのですね。 智顗 この地上界は、さまざまな人間に出会える機会であります。唯一の機会であります。いろんなひとがいます。善人も悪人もいます。イエス様や、お釈迦様のような人もいます。しかしまた極悪非道な人もいます。これだけいろんな人に会える機会というものはないのであります。 6.地獄霊は病人、地獄界は神が用意された病院である 富山 要するにこの地上界外の異次元世界では、いま大きく分ければ二つの世界があるということですね。 智顗 そうですね。まあ「天国」と「地獄」というような考えを持つよりは、いま健康でいる人と、病気で病んでいる人がいると考えてほしいのです。 病気で病んでいる人がいますね、病気で病んでいる人は抹殺してしまうとか、そういうのは危険ですね ――、そういうことなんですよ。病気をしている人はある程度病院で入院して治療しなければいけないんですね。根気よく。そうして、やがて健康体にかえってほしいということなんですね。病院がいけないわけではないんです。どんな健康な人でも病気になることがあるんです。ですから天上界霊、地獄界の霊が居るというように、二元的に考えてほしくないんです。人間には、健康なときと、病気のときがある。病人という種類の人が居るんじゃないんです。健康人という種類の人間がいるんじゃないんです。本来、みな健康な人間であるべきなんです。ところがある時病んでしまうときがある。わかりますでしょう。病気というのはある程度の治療、治療期間がなければ癒らないのですね。ですから、地獄を考えるときに、これからは地獄霊、地獄の人、地獄の住人という別種の人間が居ると考えないでほしいんです。病人が居ると思ってほしいんです。健康な人も、病いに臥せっている人も、神からみれば同じく自分の子供なんです。病人が悪いんじゃないんです。だからあなたは、地獄霊を思うとき、彼らは病んでいるんだと、病人だと思って下さい。いま病気なんだけど、もともとは健康な人間なんです。人間は病気になれば、我儘も言えば、愚痴も言う。さまざまなことを言うんです。不平不満が一杯ですからね、病気だからもう自分だけのことしか考えられないんです。分りますでしょう。 地獄霊がなぜ、自我我欲、自己保存、それに振り廻されるのか、それは彼らが病人だからです。病人を見てみなさい、病院へ行って病床についている病人をみてみなさい。彼らはもう自分のことしか考えていないんです。どうやったら病気が治るか、自分のことしか考えていないんです。痛みが直らないだろうか、美味しいものが食べたい、元気になったらどこそこへ行って遊んでみたいと、自分のことしか彼らは考えていないんです。それは病気だからです。そういうふうに思ってほしいんです。―― だから病人族という人が居るんじゃないんだということを、健康な人が病気になることもあれば、病人がまた健康になることもあるということ、そういうふうに考えて下さい。 富山 本来健康な状態が神に与えられた状態だということですね。 智顗 そうです。だから地獄を責めるよりも、病人の姿を想い出してほしいんです。彼らは我儘を言うけれど、あなたは病気をしている人達の我儘に耐えることはできますでしょう、ある程度。ああこの人はいま病気だから我儘を言っているけれども、この人は健康であれば、こういうことは言わないはずだと、あなたはわかるはずですね。そういうふうに考えてほしいんです。 中にはね、病人の中でも、もう気狂のようになっている人もいますよね、もうどうにもならない人が居ますよね。そういう人も居るんです。それが地獄の魔王、サタンといわれる人達です。わかってくれないんです ――。だから地獄界というものを神がなぜ存続させるのか、と、あなたは考えるかも知れないけれども、そういう比喩からいうなれば、こういうふうに置きかえたらいいんです ――。みんな健康な人間であるべきだのに、なぜ病院なんてあるんでしょうかとね、ということなんです。病院なんて潰してしまえ、と、そしたら病人は居なくなるだろうと、そういう考えなんですね、そうじゃない、病院が悪いんじゃないんです。 富山 病人がいる限り病院があるということですね。 智顗 しかし、ふつう人間というものは、健康人と、病人というふた種類の人間がいると考えた場合には、ああ病院があるから、病人はここにいるのか、病院という建物を壊してしまえば病人も居なくなってしまうと、なぜかそういう錯覚に陥ってしまうのですね。 そういうことなんです。だから地獄界は病院だと思って下さい。病院なんです。神は、病院を用意されているわけです。―― 病院の中は暗く、じめじめした人がいっぱい居るわけですね、苦しみの声、苦痛の声が高く低くいろいろ漏れている。悲しみの声が、呻きの声がそこからもここからも聞こえてくる。しかし、病院自体はなにも悪くはないのです。 例えばそのような苦しみや、悩みや、或は愚痴や不満で一杯の人、こういうひとをですね、もし病院というものを無くして、普通の生活者と同じようなところに置いておいたら、これは大変なことになる場合もある、わかるでしょう。だからある程度病院のようなところで、もう一度立ち直るという機会を与える必要もある。地獄の存在意義もそういうところにあるわけなんです。病人は病人としてその病気、病いを直すことに専念してほしいということ、ですから地獄という組織そのものが、大きな慈悲の産物であるということ、これに気がついてほしいんです。地獄という存在自体が悪いんじゃない。地獄の存在自体が慈悲の存在であるということです。そういうものを設けて反省の機会を待っておられる。健康になる機会を待っておられる神、これは神の慈悲なのです。地獄を悪と思うのは止めてほしいのです。地獄は慈悲の所産なのです。神の用意された病院なのです。そういうふうに考えてほしいのです。そうすればあなたの先程の疑問はかなり直るのではないでしょうか。始めのうちは人間は少なくて、みんなが幸福に過ごしていたときには病院なんてなかったのです。たとえ病気になっても、すぐ治ったのですが、しかし世の中が進んで、さまざまな生活様式が生れ、病気の数もふえてきました。病人がいろいろとふえてきたわけですね。これが地獄界の人ロ増となっているわけです。元はそんなに病気もなかったわけですね。切り傷、ひっかき傷、怪我、そういうことはあったかも知れません。しかし原始人間が住んでいた頃には病気の種類もそれ程なかったわけです。しかし文明が進んでくると、様々な病気が出てきました。癌、高血圧、内臓の疾患など様々ですが、その病気に合わした総合病院が必要になってきたわけです。その地獄という総合病院の中には小児科もあれば、耳鼻科もあれば、皮膚科もあればいろんな専門病科もあるわけですね。それが地獄のさまざまな組織ですね。動物界もあれば、阿修羅界もある。また阿鼻叫喚地獄のようなところもあります。血の池地獄のようなところもあります。それは様々な病院の分化と考えていただければいいわけです。もともとは、昔は、単に病んでいる人だけが居ただけです。しかし、今はその病み方がこうこういう原因によって病んだという様々な種類に別れてきているわけです。そのために病院の総合化が進んでいるわけです。そういうことなんです。 7.地上での光の天使は医師の役割 富山 そうするとその病院で医師の役割をしている人達はいないんでしょうか。 智顗 居るわけですね、それが光の天使たちでもあるわけですね。彼らは、私達もそうですが、定期的に行って救おうとしているし、また地上というそのことを伝え易いところにおいて、現にいろんなことをしているわけですね、いろんな人が ――。 富山 光の天使が地上に出て来ているのもそういう仕事があるからですね。 智顗 そうです。監獄であり、社会施設であります。 富山 自然治癒にまかしているというわけではないのですね。 智顗 ないわけですね。だから光の天使達が地上に降りて正法を説いたりするのも、理由の一つはやはり治療です。医者であり、看護婦でありということですね。ですからまず先ほど上と下というような考えをやめてほしいということを私は語りました。次には、地獄界の存在自体を゛悪゛という考えも止めてほしいということですね。病院だというふうに考えてほしいし、地獄で現に、悩んでいる苦しんでいる人達の姿は、病院の中にある姿と変らないということですね。ありとあらゆる苦しみがありますから、そういうふうに考えてほしい。病院を無くせば患者が居なくなるわけではない。患者は各自また自宅で悩むだけのことです。そういうことですから地獄界の組織そのものが悪い、それを無くさなければいけないというような考えは、考え直してほしいわけです。これも神の慈悲のもとにあるということですね。 8.人はこの世で例題に学び、答えのない応用問題を解かねばならぬ 富山 それからいま一つ伺いたいのですけれども、自分自身の行動を、こうと決めるのは自分自身ですね。 智顗 そのとおりです。 富山 そういう場合に、例えば高橋信次先生がとった行動なりお考えなりを規範としていくというととと、もしそれと違う心の状況が出てきた場合にどっちを採るべきかということが一つの悩みの原因となってきているのですが。 智顗 それが修行なんです。模範解答はあるわけですね、いわば、あなたのお得意の分野でいうならば、例題と、解答というのはあるわけであります。しかし例題と解答はいいんだけれども、その通りの問題は、現実生活においては出ないのですね。現実生活には様々な応用問題があるわけであります。応用問題のときにですね、その例題と解答との道筋ですね、それを参考にしてどのように解いていくが、これが各人の勉強であるわけです。だから高橋信次氏のような方というのは、いわば、教科書にあるような例題と解答、そういうもんだと考えてほしいんです。現実の問題はそういうもんではないのです。応用問題は、様々にあるんです。どういうふうにして解くか、それがあなたの実力になるわけです。 富山 例えば応用問題があった場合に、例題と違う解き方で解く方がうまく解けた場合は、その解き方で解いてもいいという場合もあるわけですね。 智顗 あるでしょうね。しかしそれが合っているかどうか、解答が与えられていないから、正解であるかどうかはわかりませんからね。要するに、自分が解いたけれど解答がない問題集を解いているような、人生というのは、解答がない問題集を自分で解いているようなところがあるわけですね。自分としては、次つぎと解いているのだけれども、果して合っているのかどうか、解らないんですね、そういうことです。 富山 それは、そちらの世界へ還った時点で分るのですね。 智顗 そういうことです。もっとも帰っても分らないひとも居ますがね。 富山 死んでそちらへ還ってもまだ判らない人も居ますか。 智顗 要するに、解答のない問題集をわたしたちは解いている。しかし例題と例題の解答は用意されているわけです。しかし他の問題については、問題だけあって解答は与えられていない。自分で問題は解くんだけれど、つぎつぎと問題は解くんだけれど、その答えが合っているかどうか判らない、例題と違う解き方をした。こういう解き方もあるんじゃないかと思う。しかしその答えが合っているかどうかは分らないのです。 富山 ただ、それは、自分個人の場合だったらいいですけれども、それが他の多くの人に影響を及ぼす場合には、ひじょうな危険なことになる場合もありますね。 智顗 ―― どういうことでしょう。 富山 例えば指導者的な立場にある人が、こういう方向が正しい方向と決めた場合に、もしそれが違っていた場合には、その集団全部の方向が違った方向へ決まってしまうわけですね。 智顗 そうですね、―― 例題と例題の解き方が違っていた場合には、大変なことになりますね。 富山 高橋先生の場合には、例えばお釈迦様とか、イエス様のような型で例題はある程度与えられていると思うのですけれども、高橋先生の場合も、あれは応用問題だったのでしょうか。 智顗 あなたは、私の言っていることの意味が分って居られない。私、ひじょうに残念です。 富山 ―― それでは模範解答なわけですね。 智顗 そうです。 富山 しかし、人は必ずしも模範解答通りいけない場合が多いですね。 智顗 そうです。―― それは、問題が微妙に変っているからです。 9.天上界にもリーダーは居る。ただしそれは「村長(むらおさ)」というかたちで 富山 ―― わかりました。ありがとうございました。それで大体分りました。―― ただいま一つ伺いたいんですけれども、例えばそちらの世界では、この地上でいうようなメシア信仰的な部面があるのでしょうか。 智顗 どういうことでしょう。 富山 崇拝し、敬い奉るという仕方なんですけれど、例えば地上界でキリスト教でイエス様を崇拝し、仏教ではお釈迦様、イスラム教ではマホメットを崇拝しているような形の信仰なり崇拝が、そちらの世界でも。 智顗 そちらの世界というのは、どういう世界を指しておられるのでしょうか。 富山 あなた方、あなたの住んで居られる世界では。 智顗 崇拝はありません。―― わたくしたちはみんな友達です。ただリーダーになる人はいます。みんな同級生なんです。しかしクラスの委員長になる人も、副委員長になる人も居るのです。その他何、何、係をする人も居るのです。 富山 例えば、地上界の考え方でいえば、国王とか女王とかいう意味ではなくして、総理大臣とか、大統領とかいうふうに一般の中から選ばれて。 智顗 あまり好きじゃないです。そういう言い方、あまり好きじゃないです。 富山 私たちは、そういう考え方しか与えられていないですね ――。 智顗 そうじゃないんです。あなたがそういう考え方をされたのです。 富山 ある考え方を比較する場合、ある一つの考え方と比較して、―― そうした方が理解が早いわけで、それでそういう例を出してきたわけなんですけれども。 智顗 いわば昔のですね「村長(むらおさ)」のようなもんだと理解して下さい。なぜ「むらおさ」が尊敬されるのか、それは様々の経験を通じてですね。こういう場合には、こうしたらいいという知恵ですね。知恵を持っている、村おさは、年期を経ているわけですが、それだけではなくて知恵を持っていて、こういう場合には過去こういうことがあった。その時にはこういうふうにしたと、いうような様々な知恵を持っているわけですね、そういう知恵を持っているから尊敬をされるわけですね、そういうものだと思ってほしいのです。 富山 支配者、という考えではなくして……。 智顗 支配者じゃなく、知恵あるものなのです。知恵あるものであって、みんながその人に対してですね、考えを問い質すわけですね。知恵あるものだと思って下さい。 ですから私が、総理大臣や、大統領という考え方と違うといったのは、そういう比喩が違うと言ったのは、その意味が分るでしょう。゛村長(むらおさ)゛のような知恵ある人、それて尊敬を集めているわけなのです。 富山 選ばれたものではないわけですね。 智顗 知恵あるもの……。 富山 既に在るというか ――。 智顗 偉い人でなくて尊敬されるべき人なんです。尊敬が集まる人。 富山 そうすると大分違いますね、地獄界の人たちの考え方とは。支配者という考え方とは明らかに違いますね ――。 智顗 違うでしょうね ――。知恵ある人とは、自分の知恵をさずけようとする。そういう関係ですね、自然とそういう道がつくわけですね。おわかりになりましたか。 富山 ―― ありがとうございました。 智顗 天上界、地獄界の大体の仕組とか、考えの方向とかが分って頂ければ、私としては、ひじょうに嬉しいです。 富山 ―― はい、大変ありがたかったです。私自身の迷いがそこにあったわけで、私自身一番大きな迷いというか、世界を観る眼が自分自身の偏見というか想いでみて苦しんでいたわけだと思うんですけれど。 智顗 卑下されることはないのであって、みんなそうなんです。みんなそれで苦しんでいるわけですね。その考えなり、想いがいかに純化されていくか、それが私たちの課題でもあるわけです。私の考えもまだ、知恵ある、最高の知恵あるものの考えではないわけで、私もまた知恵あるものに対してですね、私の考え方を正されるわけです。―― あなたの考えは違っているぞと、教えを乞う場合があるわけです。ですから私の考えもまた絶対なものと思ってほしくないのです。しかしながら、何らかの参考にはなると思います。 富山 ―― はい。基本的な考え方としては、参考としてよろしいですか。 智顗 そうです。―― まあ私がいままで言ってきたことを通して考えてほしいことは、あなたの意識の中から、上と下というような考え方、善と悪というような考え方、このような人間的な考え方を去ってほしい、止めてほしい。神のこころは善悪を超えたもの、上下を超えたものであるということ、そこを分ってほしいのです。 富山 完全なといいますか、人間知や、人間的行為そのものの中には゛絶対善゛というものはないのですね。 智顗 そうです。―― そうじゃなくて、善も悪も超えたものなのです。上も下も超えたものなのです。わかりますか。神がもし上であり、神がもし善、善悪の善であるならば、神がどうして全世界を包含するものになり得ましょうか。そうじゃない、―― 神は対立するものの一方に在るものではないのです。すべてを包含するものなのです。それとまた私は、われわれのリーダーのことを、平面的な譬を用いて語りました。われわれのリーダーは、大統領、首相とそうでない人との区別でみるのではなくて、「村おさ」知恵あるものという譬で語りました。これらのことを解ってほしいのです。 富山 いま一度復唱してみますと、善と悪というのは、人間の側からみた、例えば、神の意志に沿った線に行っている場合に善であり外れたら悪だという人間の考え方なんですね、神自身に善とか、悪とかいうものはなくて ――。 10.健康な人間には真の健康の有難さが分らない 智顗 だから健康な人と、病人というふうに考えてほしいということですね。これはさきほど言いましたね。病いも大事な時期があるのです。生きている人間、健康な人間、働いている時には健康の有難さがわからない、自分のいま持っている幸せ、価値が分らない。こういう人が病いにかかる。いったん病いを経験した時に、はじめて元気で生きていることの有難さ、父や母や家族の愛、親戚の愛、このようなものに思いを馳せることがあるわけなんですね。しかし健康で、自分が恵まれて、いろんなひとに評価されて、自分の我儘に生きていた場合には分らないのです。ですから病いには病いの役割があるのです。病いの状態はこの地上から無くさなければいけません。しかしながら、病いは病いとして役に立つ面もあるということも、一つの事実なのです。そのような病いを経なければ、人間は、幸せ、というものを感じることはできないのです。 また悪、というもの、善悪という対立、がなければ、人間は、善というものに気がつくことができないのです。その意味においては悪、とされることは、善、を伸ばすための素材であるということ、これはしっかり認識してほしいのですね。 しかしながら、実際の神のこころは、私たちの考えるような、善とか、悪とか、いうものを遥かに超えたものだということ、これはわかってほしいのです。 善悪は現にあるのです。自分の子供が善を働いたり、悪を働いたり、善人になったり、悪人になったりすることはあるのです。しかし父の愛、母の愛は、息子が善人だから、悪人だからといって差別はしない、そういうことです。善、悪、は厳としてある。しかし、それを包むものも、またあるのです。その包むものこそが、神の心であるということ、したがって神は単に、善と悪なら、善を選べといいますが、しかし悪だから駄目だと、私は善だけに味方するのだと、そうではないわけですね。あなたの父や、母は、あなたに善をすることを奨めるでしょう。あなたに善人になってほしいと言うでしょう。しかしながら、あなたが現に善人であろうが、悪人であろうが、父や母の愛は変らない。わかるでしょう。しかし父や母は、あなたが善人になることを望んでいるはずです。好ましいそれが方向だということを知っているわけです。 富山 ―― はい。
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ReadMe.txtに書くべき内容 ReadMeというだけあり、利用者に見てもらいたい読んでもらいたい内容を書く添付書類だ。 ReadMe.txtの書式は大手メーカーであっても企業によって書き方は様々。つまりコレといった 決まった書式があるわけではない。 ここで記すのは自作ソフトやアプリを世(AppStoreやGooglePlay等)に出すとき、書いておいたほうが 後々いいよ、ということを書き残す。 もちろん下記のフォーマットは絶対でも必須でもない。好きな書き方をしていい。 バージョンとリビジョンは、いずれか一方で良いと思う。 ビルド番号は、出してもいいなら書いておいたほうが開発者や問合せ担当で切り分けが楽になるだろう。 作成者、作成日は必須。作成者は本名でなくとも団体名、会社名で構わない。 最も必要だと思う部分「ライセンス」。フリーソフトなら"GPL"か"CC"にすることが多いと思うが、 CCの場合は表示、継承、改変などのプロパティを明記しておくことを忘れずに。 サポート窓口は使い方やFAQをまとめた告知ページ、サイトから文章で問合せるためのフォームページ、 メールで直接問合せられるメールアドレスを書いておけばいいだろう。但し3つとも必須ではない。 //////////*//////////*//////////*//////////*////////// アプリケーション名 バージョン リビジョン ビルドナンバー 作成者(又は作成団体名、会社名) 作成日 ライセンス サポートサイトURL サポートフォームURL サポートメールアドレス //////////*//////////*//////////*//////////*////////// 例) //////////*//////////*//////////*//////////*////////// Androidマイカレンダー ver.1.0 rev.100 build.020 Auther is k-plus License Creative Commons [CC BY-SA] Support http //www.example.com/support/ http //www.example.com/support/mailform/ support@mail.example.com Thank you. //////////*//////////*//////////*//////////*////////// 上記は表題部分の書き方で、表題(文頭)以下は、もちろんソフト・アプリの使い方を書く。 書き方は自由だが、ユーザが行なうであろう手順を時系列に沿って書くことが好ましい。 1.ソフトの目的 2.インストール方法 3.基本的な操作方法 4.アンインストール方法 5.FAQ といった具合だ。 ソフトの目的は、絵が掛ける、音楽を再生できる・・といった内容。概要といっていい。 インストール方法は、インストーラー任せでいいように作ると思うが、たとえばファイルの 初期保存先の設定画面があるなら、デフォルト設定の変更方法を書いておくといいだろう。 基本的な操作方法は、ソフト・アプリの起動方法、ファイルの指定方法、実行や再生方法と いったものだ。 アンインストール方法も、基本的にアンインストーラーから削除するものが殆どだと思うが、 フォルダが残ってしまう場合やレジストリを削除することが必要なら合わせて書いておくのが いいだろう。 FAQは、自分が思いつくことだけ書いておけばいい。ソフト・アプリの使い方なんて人夫々で リリース後に届くユーザーからの問合せを受けて追記する形になってしまうはずだ。 再三再四になってしまうが、必ず「ライセンス」については明記することだ。 これが書かれていないと、コピーレフト(権利放棄)と勝手に解釈され、自分の知らないところ で勝手に利用されてしまう可能性がある。 性善説で考えることは悪いことではないが、性悪説的に考えておいたほうが無難だ。